輝け!いのち
表情いきいき、『あそび』こそ子どもの生命線
危ないからと、
遊ばせたくない大人たち。
その中で育ってしまった
遊べない子供たち…。
いま、大事な何かが
失われ壊れつつあるのだろうか。
いま、子供達が危ない。

平成9年9月29日付の日本経済新聞紙上で、ひとつの『警鐘』が鳴らされました。「子どもが消える?」と題された特集記事でした。『元気で明るい、子供らしい子供。どこにでもいたはずのそんな子供が、めっきり減っている。……』というのです。

遊びの空間を奪われる中、遊びを通して自然に得ていた成長のバランスが、くずれ出している。中学生や高校生が指圧ルームに通い肩こりの治療をしたり、小さな胸に負い切れない悩みを抱えて、占い館に駆け込む現象すら出ている。

また、訪問の絶えない学校の保健室には、悩みやストレスを抱えた子供たちが、右往左往している。ちょっと転んだだけで鼻骨を折る子供すらいる。転んだ時に、反射的に手が出せず顔から倒れる。まさに信じられないようなことが、現実に起きています。ボールが飛んできても、とっさに距離感がつかめずによけられない子供もかなりいます。

日常の遊びや、生活習慣を通じて身に付くはずの、こんな当たり前の感覚が欠如した子供たちが増えてきているというのです。

講演会等で「うちの子は鉛筆がうまく持てないのですが!」との質問に対し、安田先生は「日本人ならだれでも箸をもって食事するでしょう。箸と鉛筆の持ち方は同じで、二本の箸より一本の鉛筆を持つほうが簡単なはずで、それが出来ないのは、日常の食事の時にちゃんとしつけていないからです。」と答えておられます。今や、乳幼児期の躾までもが、社会問題になりかねない状況になってしまいました。

日本体育大学の正木健雄教授の調査によると、近年とみに、子どもの背筋力が落ちているらしいのです。男子の背筋力の目安は「成人になった時に親を背負える」、女子は「成人になった時に子どもを抱ける」というものです。しかし、2000年には子どもから青少年期にかけての背筋力低下がみられ「成人になっても親を背負えない」男子や、「子供を抱けない」女子が多くなってきています。このままでは極端な場合、日本人は親の介護や育児に耐えられない体になってしまうかもしれません。

また、別の調査によると、近頃は体温調節のできない子供も増えつつあるというのです。午前中の検温で36度を切るという、体温の低い子供が多い割りに、午後になると37度を越える子どもが約三割に達し、中には一日に二度近くも体温変動する子供もいるという。体温調節がうまくできないと、運動中に熱が上がり過ぎて、「熱中症」になる。そういうケースも続出しています。

背筋力は、布団の上げ下ろしや、日常の遊びの中でで自然と身に付くものだし、体温調節は汗腺の数に左右されますが、3歳頃までにたくさん汗をかいていれば、汗腺は自然に育つはずで、体を動かしてよく遊んでいれば、こんな問題は起きないのですが、一体どうなっているのでしょうか。

大事な遊びが、消えつつある。

いま、「子供の遊び」が極端に貧弱になってきているといわれます。前述したように遊ぶ空間もこの30年で半減し、昭和30年代と比較すると、何と20分の1以下です。都市化の波はあまねく全国に波及し、そのあおりで町のあちこちにあった空き地という「遊び場」が無くなってしまいました。

また、地域社会の崩壊、家庭形態の変容等の諸条件の中で、子供たちは、屋外で暑さや寒さを感じながら遊ぶ、そんな機会すらもいつしかも奪われてしまったようです。

「遊び」と言う言葉には、いろいろな面が有ります。お母さんが子供に「遊んでばかりいないで」と言うときの遊びは悪者ですし、幼児がおもちゃを相手に機嫌良くしていると「おとなしく遊んでくれて」と遊びは善になります。

自動車の「ハンドルの遊び」は必要不可欠のものだし、階段の踊り場もいわば遊びの空間だといえます。人が噂する「あの人は遊び人だから」と言うのは、遊びをマイナスイメージで捉えていますが、「彼ももう少し遊ぶと人間に幅ができるのに」と噂されるときは、遊びが奨励されています。遊びというのはなかなか奥が深そうです。

子供たちにとって遊びは生活の一部で、遊びを通して様々なことを体感し、体得します。身体で覚えるという表現がありますが、身体を動かすというのは、ただ手や足、身体を動かすだけのことではありません。

身体を動かす指令は脳から出されます。大脳には約150億の細胞が有るそうですが、この細胞の数は生まれ落ちたときに既に備わっていて、その後は増えるのではなく減少していくそうです。脳細胞の中で記憶や、運動の際に、どう反応したらよいか等の判断をするのが大脳皮質にある錐体細胞の役目だそうです。この細胞(錐体細胞)の一つひとつは、いろいろな経験を重ねる度に樹状突起という「技」を出して、他の細胞と関わっていろいろな判断を下すというのです。

脳の細胞も一つの動作をすることで学習し、枝を増やし他の細胞と関係しあい複雑な反応や対応が出来るようになっていくというのです。脳は大事な機関だけに細胞学的には、生まれたときにはある程度完成しているようで、ほぼ10才ぐらいで成長を完了するといわれています。最近、サイレントベビーという大変おとなしい赤ん坊が増えてきているという報告もあります。ベビーベッドで寝かされベビーカーで行儀良く育てられ、這い回ったりしなくなってきたのが原因ならちょっとこわい気がします。

たかが「遊び」、されど、あそび!

「子供の遊び」というのは、極めて総合的な要素を含んでいます。子供社会にあって、「遊び」は実に複合的で、遊びを通じてさまざまな体験をし、同時にいろいろなことを学んでいます。遊びの中で創造的な体験をしたり、人とのふれあいの中で、ちょっとしたいさかいや、けんかなども体験し、社会のルール等も自然に習得したりします。遊具の順番待ち、譲り合い、チームワークの疑似体験、役割分担、責任感の醸成といったかなり高度な社会ルールすら、自然と身につけていきます。

以前、京都大学名誉教授の森先生が、面白いことを言っておられました。普通小学校、中学、高校で学ぶ算数や数学では「答が用意されている」のが一般的だが、大学の数学では「答があるかどうかさえ判らない問題」に取り組むのだというのです。そこでは答えも「仮説」であり、どういう考え方をするか、はたして答えは在るのか、問題足りうるのか等々、問題に対してどういうアプローチをするかが問われる訳です。

いわゆる「答え」が用意されていないわけで、これまでの学習で経験をしていないことだけに、数学が得意で入学してきた学生も、大いに戸惑いどう対応すれば良いか判らず、お手上げになってしまうというのです。子供たちの遊びには、これと似た所があります。

通常、大人の感覚では「遊び」にもセオリー(答え)があると考えていますが、子供達は時として、独自のルールを生み出したり、大人が「えっ!」と驚くような遊び方を作り出したりして、実践しています。例えばメンバーの中に身体の不自由な子供がいると、彼の症状に合わせた「特例ルール」等までを創ります。まるで高等数学の世界のようです。

野球でも、メンバーが足りないと本塁・一塁・三塁だけの三角ベースにしたり、キャッチャーは攻撃側の手すきのものが担当するようにしたりと、臨機応変、自由自在に変えて遊びます。極端な場合、新聞紙を丸めて作ったボールや、バレーボールをつかった野球や、バットの代わりに足で玉を蹴るサッカーもどきの野球まで飛び出してきます。そういった臨機応変な所に、遊びの真骨頂があります。

しかし、少年野球も今やチームに所属しないとできない時代になってきました。ここでは野球は「遊び=草野球」ではないから、こんな勝手なルールは適用されないし、許されません。ここでは体力差、年齢等も極めて少なく、ハンデキャップのある人や運動能力に欠陥のある子は、先ず参加させてもらえません。確かに本格的な野球かも知れませんが、子供の成長や情操を養う「遊び」の野球とは似て非なるものなのです。そして、いつの間にか、年長者、年少者が相混じって一緒に遊ぶという機会も失われてきたようです。

そして、何時の間にかこうした「遊び」ができる空間も、町から無くなってしまっていたのです。「あそび」というのは、非常に大事なものです。これを排除するようなことがあってはならないと思います。

遊びには三つの大事なポイントがあります。

遊びは本来楽しい。
この「楽しい」ということがとても大事なことです。楽しいというのは、楽(らく)という字で表現しますが、楽とは少し違います。遊びは苦しくても楽しい、大変だけれど楽しい、そういうものではないかと思います。自主的に飛び込めるもの、積極的に取り組めるもの、遊びの楽しさ面白さは色々です。楽しみに至るまでには辛いことが有り、苦しいことがたくさん有る、だけどそれらも楽しい。それが遊びの本質だと思います。

遊びは自由。
また、遊びには心を開放できる自由さが必要です。技能、行動の選択が自由でなければだめです。監視されたり、強制されて遊ぶなんてことは出来るものではありません。

遊びにはルールが必要。
そして、遊びにはルールが必要なのです。遊びは非日常的な世界であり、ルールを逸脱すれば、遊びではなくなってしまうからです。楽しく、自由に、ルールを守ってあそべば、自然にバランスのとれた精神と肉体の成長が促進されるのです。子供は遊ぶのが仕事。大いに遊んで健全な精神と肉体を作り上げてほしいものです。